言葉は即興で交わされている

2026.6.30 火

 「即興」なんて言い出すと、ややこしい話になりそうだけど、ぼくらは日常的に「即興」で生きている。人によって多めだったり少なめだったりはあるけれど、「即興」とは誰でも普通にやっている日常的なものなんじゃないかと思っているのだ。

 僕らの日常会話はほぼ即興みたいなもんだ。例えば居酒屋での会話。最初から結論や筋道が決まっているわけじゃなく、話題はどんどんそれつつ転がっていく。仲が良ければ、わざと突っ込んで会話の腰を折るし、くだらい方向にどこまでもいくかと思えば、ときには想定もしないシリアスな話になったりとか、泣いたり笑ったりもあるしね。音楽でいうならまるでジャズの即興演奏のようだ。とはいえ、ジャズの場合は居酒屋の会話よりはもう少し決まり事が多くて、始まりと終わりにはテーマを演奏することは決まっていたりするし、中間部分は自由にやるっているとはいえ、テーマのハーモニーに縛られている場合が多いから、居酒屋の会話の方がより自由度が高いといえるかな。あんまフェアな比較じゃないけどね。でもそもそも僕らはみな、少なくとも会話においては、ジャズ・ミュージシャンよりもずっと自由に即興をしているのだ。

 それとは対照的な会話は演劇での会話だ。台本にある通りに話さなくてはならないって辺りは、譜面をしっかり再現するクラシックと似ているかもしれない。でもそこにも遊びのような余白はあって、ちょっとした間とか、ニュアンスについては台本や譜面に書かれていない事も多く、その部分は演者が時に即興的にやることもあったりする。いずれにしろ居酒屋の会話であれ、演劇の会話であれ、共通しているのは言語を逸脱して色々な国の言語になったりということは通常はあまりないし、ジャズの即興もあくまでもジャズの語法の中で行われるし、クラシックのニュアンスも、西洋音楽の伝統の中でこれはありなしみたいなもんがあって、そこを逸脱することは通常はないものだ。つまりは即興と言っても、僕らの日常は、同じ言語(文化)という安定した枠の中で即興的に会話なり演奏なりが行われているということかな。日常生活の中で、僕らは日々その文化の中にいるための即興の仕方を鍛えているようなもんだとも言えるかな。話し下手、話し上手の差異はあるにしろ、この安定した枠、同じ言語、同じ文化の中で、僕らは異性に告白したり、営業で商品を売ったり、医者に病状を話したり、何かをしでかして謝罪したり、友人に愚痴をこぼしたりといったことを、ある種即興的にやってる。これが僕らの日常だ。

 ただしこれは単一言語の地域にいる場合の話で、多言語、多文化の地域になるともう少し事情は異なってくる。

 マレーシアのクアラルンプールの話をしよう。2024年に、ここで行われている東南アジアでは数少ない即興に焦点を当てたフェスティバル〈KLUX〉に出演した時の話だ。このフェスでは昼休みや終演後には、皆で連日ぞろぞろと近くのレストランやストリートの屋台に行って食事をする。その格別の美味さについて書き出したら止まらないのでここでは割愛。
 クアラルンプールは様々な人種が暮らしていて言語も食事も多様だ。さまざな地域のレストランが所狭しと並んでいたりする。レストランに行くと給仕が使う言語も多様で、これを瞬時に判断して注文する側も言語を使いわける。この時に行ったレストランも、店によってマレー語、広東語、客家語、ミャンマー語とさまざまな言語が飛び交う。もちろん給仕の側も相手の言語に合わせてくるし、例え通じなくても料理の名前を言えばそもそもなんとかなるけどね。様々な国から人が集まるフェスの打ち上げとなるとさらに多様な言語が加わる。実際コンサートの後の打ち上げのテーブルでは北京語、広東語、客家語、マレー語、英語、ドイツ語が飛び交っている。全ての言語を完璧に使える人はいないから、言葉はどうしてもカタコトになる。このカタコトの感じが、なんだか音楽みたいでオレは大好きなのだ。意味がはっきり聞こえてくるときと、意味がわからず声だけが聞こえるときとがマダラ状で、意味の方にも行けるし、音の方にも行ける。この自由でゆるい感じが、まるで自分がやってきた即興演奏のようだなとも思うのだ。

2026.6.30